山あり谷あり

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今回の写真、ちょっとこだわって選んでみたのですが、一見すると、上り階段なのか下り階段なのかわからなくないですか?

きっと人生も似たようなもので、目の前に広がっているのが山なのか谷なのか、パッと見、わからないんですよね。

今日もことわざについて、自分なりに深ぼっていきたいと思います。

いろいろな使われ方をするこの言葉

良い時には「気を引き締めて」、悪い時には「長くは続かない」、という意味で使われるこの言葉ですが、抽象的な言葉なだけあって、人によっても受け取り方の振れ幅が大きいように感じます。

山も谷もいらない人にとっては良い迷惑ですよね。

穏やかに過ごしたいのに、山や谷が勝手に来るわけですから。

どんな人にでも山や谷はあるもので、どれだけそれを均そうとしても、山や谷の方から近寄ってくるものです。

ある意味それは多くの人間にとって逃れられない運命のように思います。

受け止め方で、結果は変わる

山登りをする時に大事なことは、そもそも登る気があるかどうかだと思います。

登る気の無い者に山は登れません。

一般的に、山は上に行けば行く程、酸素が薄くなったり、気温が下がったり、天候が激しく変わったり、大変なことが多いです。

それでもどうして山に登ろうとするのか。

ある登山家は、「そこに山があるからだ。」と言ったわけですが、これが真理なのかもしれません。

辛いし苦しいし、 何一つ良いことなんて無いように思えますが、山があれば登る人もいるんだ、ということは、理解しておかなければなりません。

それぞれの「山あり谷あり」

好きなものやことはそれぞれ違えど、「好きなものやことがある」という事象については、おそらくほぼ全ての人間に当てはまることでしょう。

そしてどんなことも、進もうと思えば山が立ちはだかります。

時には谷底に突き落とされます。

それでも好きなことを追い続ける気力がある者のみが、その道を究めることができるのではないかと思います。

進めば進むほど、その道が険しく思えるでしょう。

「なんでこんな道を選んで歩いてきてしまったんだ」と後悔することもあるかもしれません。

もちろん、進んだ道の先に必ず栄光が待っているわけでもありません。

山で命を落とした登山家も沢山いると思います。

ですが、彼らは不幸な人生だったでしょうか。

「幸せ」という、どうとでもとれる概念を持ち出すのはあまり適切ではないかもしれませんが、私が思うに、少なくとも登山家自身は、最後まで不幸を感じることは無かったんじゃないかな、と思います。

どうせ登るのなら、好きな山に登り、谷底に落とされよう

どんな人生を選んだとしても、必ずといっていいほど山あり谷ありの人生になると思います。

そうであれば、登る山くらい、自分で選んでも良いと思いませんか。

誰かに「この山に登るのが良いよ」と言われて登る山に、楽しさを感じられるでしょうか。

感じられる人なら構わないのですが、少なくとも自分にはできない、ということが、ここ数年でわかったことです。

いや、ずっと前からわかっていた気がするのですが、その検証をしていた、という感覚に近いかもしれません。

自ら登る山を決めることの重要性

人から進められた山に登れば、その山が険しくても、人のせいにできますね。

もっとも、人のせいにしたところで、結果が変わるわけではないのですが、残念ながら、あまりにも多くの人がこの選択をしているように見えます。

会社や人間関係の愚痴を言っている人は、「自分で選んだ山」だという自覚が非常に欠落しています。

嫌なら下山すれば良いし、その選択は自分自身にあるはずなのに、どんな選択にも責任を持たず、得は自分の手柄、損は人のせいにする人は一定数いるものです。

もし、そういう人が近くにいるのなら距離を置くべきですが、なかなかすぐにできない人は、自分自身もそうなっていないかを測るための反面教師にするのが良いと思います。

ネガティブは簡単に伝染する

愚痴を聞くと、気分が沈みませんか。

そしてその気分は、周りに伝播していきます。

人は、ポジティブな感情よりもネガティブな感情の方が移りやすいそうです。

それに、愚痴を言っている本人というのは、自分の愚痴が周りを嫌な気持ちにさせていることに気づいていない場合が多いです。

だから予防策として、なるべく愚痴を吐く人と仲良くなり過ぎない方が良いと思います。

「そこに〇〇があるから」と自信を持って言える人になるために

好きなものやことを追い続けるのは、とても難しいことのように思います。

時には、一時的に嫌な感情が生まれてしまったりすることもあるかもしれません。

それでもその山に登り続けたり、谷底に落とされても這い上がるには、自分自身がその山を好きでなければなりません。

でなければ、本当の意味で自分自身の経験にはならないと思っているからです。

確証なんて無くて当然、むしろ何が起こるか分からないからこそ、その山に登るのが好きな状態が維持できるのではないでしょうか。

そういう心構えでいることで、どんな結果になってとしても、「ケセラセラ」と思うことができるのではないかと思います。

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