こんにちは、Ryuです。
いつもブログを読んでくださってありがとうございます。
画像、バウムクーヘン余っとらんやんけ!というツッコミはご遠慮願います。笑
今日のタイトルは、自分の好きな書道家の相田みつをさんの言葉から抜粋したものです。
いくつも紹介したい言葉がありますが、今日はその中から1つ、選んでみました。
相田みつをさんの言葉はどれも非常にシンプルで、わかりやすいのが特徴だと思います。
そのシンプルさゆえに、人によって様々な解釈が存在するのもまた、面白いところだと思います。
今日は、この言葉を自分なりに解釈してみた内容を、書いていこうと思います。
人間の歴史は常に奪い合いの歴史
歴史についての記録が取られ始めてからずっと、人間の歴史は、奪い合いにあったように思います。
昔から様々な理由で戦争は絶えず、こうして記事を書いている今も、人間は各地で戦争を繰り広げています。
今の平和な日本に住んでいると、こうした現実をつい忘れてしまいそうになることがあります。
我々は紛れもなく、奪い合いの歴史を繰り返して来た人間であることを忘れてはならないと思います。
技術が革新し、より多くの人の生活が豊かになったことで、表面的には平和を手にした気分になる事があります。
例えばこの先、資源が枯渇し、エネルギーが十分に供給できなくなった未来を想像してみましょう。
果たして我々は今と同じ心持ちで生活をすることができるでしょうか。
わけるには、勇気が要る
アブラハム・マズロー(1908-1970)によると、人間の欲求は、まずは生理的な欲求や、自分自身が安全であることへの欲求から始まるとされています。
今は相対的に豊かな生活を送り、他人に対して分け与えることができる人にも、これらの基本的欲求が備わっています。
ですから、自分自身の豊かさが脅かされるような自体になれば、まずは自分自身の周りを固めるかもしれません。
自分自身が十分に豊かでなくても、分けることができるでしょうか。
きっとそれには勇気が要る事でしょう。
コロナは、本来の人間の姿を映した鏡なのかもしれない
昨今のコロナウイルスによる社会不安からくる日用品の買い占めは、分けるには意思や勇気が必要であることを表しているように思います。
少し先のことさえわからないのがこの世の中ですから、少しでも自分自身の不安を取り除くために、このような行動に出る気持ちはわかります。
しかしその行動は、同時に社会全体の不安を増長させていることを、理解しなければなりません。
必要なものを買うな、とは言いません。
しかし、平時であれば買わないようなものを買ってしまっているな、と事実を認識する意識を持っていると、それ以外のことにも冷静になれるかもしれません。
不必要な買い占めを行わないことで、分け合う感覚を養うことも可能なのではないでしょうか。
“綺麗事”で片付けてはならない
私の好きな言葉の数々は、時に「綺麗事」や「理想論」と言われることがあります。
確かにそうかもしれません。
分け合えば余ることは誰もが簡単に理解できるのに、人間はそれができない。
「周りができないから、自分もやらないのだ」というロジックを組まれる方も、きっといるでしょう。
しかしその選択は、最終的に自分自身に跳ね返ってくることになると思っています。
人間の心は、自分自身が起こした行動に左右されることがあります。
つまり、奪い合いのゲームに参加した途端、不安は増大します。
「そうだ、あれも買わなきゃ。これも買わなきゃ。」と、不安を解消するどころか、更なる不安を呼ぶトリガーになる可能性があります。
この不安は、何で満たしても消えることはないでしょう。
奪い合いのゲームに参加した途端、上には上がいる事実を突きつけられるからです。
理想を現実にしようとする過程が生み出すもの
分け合うことで短期的に得られるものは無いし、もしかしたら減る、という可能性もあります。
ただ、ここではその事実はさほど重要ではありません。
重要なのは、分け合うという行為がもたらす心理的な作用です。
分け合うことは、奪い合うことと比較して不安を増大させるトリガーになりにくいことは言うまでもありません。
とはいえ、分け合うことを拡大解釈すれば、社会全体への分配を意識してしまって、分け合うのをためらってしまうかもしれません。
この考えは非常に自然だし、自分自身も感覚としてあります。
先程も述べたように、分け合うには勇気が必要です。
自分のものを与えたり、何かを得るチャンスを他人に譲る行為というのは、奪い合う本質を持つ人間からしたら極めて難しい行為なのかもしれません。
それを自覚して、これ以上不安を増大させないために、行動を変えられるかどうかは、今から起こす行動が何をベースに決定されたものなのかをメタ認知できるかどうかにかかっていると思います。