人生

課題を見極める

こんにちは、Ryuです。
いつもブログを読んでくださってありがとうございます。

今回は、「課題の記憶を捨てる」というテーマで記事を書いていきたいと思います。

人生は苦労の連続

生活をしていると、様々なところで行き詰まる経験をすると思います。
例えば仕事がうまくいかなかったり、人間関係に悩んだり、お金が無くてやりたいことを諦めたり…他にもあるかもしれません。

こうした時に、その苦労が一時的なものであることを自覚することはとても大切です。

苦労の源泉を判断する

筆者自身も、これまでの人生で様々な苦労を経験してきました。
それは、自分自身が原因であるものはもちろん、他人が引き起こしたことや、不可抗力が原因になっているものまで様々です。

今現在、自分の前に立ちはだかっている苦労が、どんな原因によって引き起こされているものなのかを冷静に客観視することで、その苦労を乗り越えるためのアプローチを建設的に考えることができます。

ここでは苦労の源泉別に、生ずる課題に関してどういったアプローチが効果的なのかを自分なりにまとめたものをご紹介します。

  • 自分自身:課題の整理と具体化
  • 他人が引き起こしたこと:課題の整理と分離
  • 不可抗力:課題の整理と再分配

どの項目においても、まずは課題を整理することが第一です。
課題を整理することで、苦労の源泉がどこにあるのかを判断することができるようになるためです。

それでは、課題の整理後について順番に解説していきます。

自分自身の課題は、みじん切りにする

まずは苦労の原因が自分自身にある場合です。
この場合は非常に単純で、課題も自分自身が引き起こしているもののため、「取り組む」か「取り組まない(=捨てる)」かの選択しかありません。

取り組まないのなら、そこでその課題のことはキッパリ忘れてください。
いつまでも「もしかしたらできるかも」などと迷っている時間は無駄です。

取り組むと決めた場合は、次のフェーズに入りましょう。

バカバカしいと思えるほどに課題を細分化する

課題をみじん切りにすることで、1つひとつの課題の難易度が下がり、純粋に取り組みやすくなります。
また、それぞれの課題が終了したタイミングで課題を終えることができた」という達成感が湧く為、次の課題にもスムーズに進める場合が多いです。

逆に、あまり区切りの良い課題の細分化はやめたほうがいいです。
キリが良すぎると、次の課題に取り組むスタートのハードルが上がるためです。

あまり計画的に区切りを考えずに、とにかく機械的に細分化していくことで、中途半端感が出て、それを次回につなぐことにより、モチベーションを維持する、という流れになります。

他人の課題は、背負わないことが重要

苦労の原因が他人にある場合は、注意が必要です。
何に注意が必要かというと、他人の課題を背負わないという意識をしないと、知らず知らずのうちに他人の課題を背負ってしまうようなケースが往々にしてあるからです。

ですので、この場合は他人の課題であることを認識するというのが重要です。

他人が解決すべき課題に自分自身が取り組むのは、自分の首を締めるだけでなく、本来課題を抱えている人の為にもなりません。

他人の課題だと割り切ったら、あとは深入りしないようにしてください。
これは自分自身の課題に取り組まない(=捨てる)ときと同じようなアクションになります。

“装い”心配性に気をつけよ

「あなたのためを思っていうんだけど」と、反論しようのない枕詞をいう人がいますが、これは極めて注意が必要な言葉の代表格です。
大義名分を装い、自分自身の課題を押し付けているだけの可能性が高いからです。

冷静な第三者から見れば論理的崩壊は火を見るより明らかなのですが、当事者となると、案外冷静に判断できないものです。

もし、他人に課題を背負わされてしまっているか自分自身で判断ができない場合は、迷わず周りの冷静そうな人に相談すべきだと思います。

不可抗力により生ずる課題は、自分にできることを見極める

よく、「こればっかりはどうにもならない」という言葉を聞きます。
ろくに課題の整理をせずに、抽象的な課題を整理しようともせずに投げ出してしまうパターンですね。

残念ながら、この光景は職場でよく見られるように思います。
特に上司がこのタイプだと、課題がよくわからないまま部下にぶん投げられることになるため、組織はてんてこまいになります。

要領の良い部下であれば自分自身の力で課題を整理・細分化して仕事をこなすことができるかもしれませんが、その部下自身からのフィードバックやアウトプットが組織全体について為されない場合、外部から見ればブラックボックス化された課題のままであるため、根本的な問題解決にはなっていません。

この場合は、課題の整理をするのは変わらないのですが、課題の所在も定義されていない場合も多いため、特に組織やチームで動くような場合は、課題の再分配が必要になります。

ブラックボックスのままの課題を一挙に引き受けることは、想像以上のリスクがあります。
まず、課題解決までの見積もりが立てられませんし、正当な評価にも繋がりません。
こうならない為に、ある程度定量的に評価できる形で課題を共有しておくことはとても重要だと思います。

公益性の高い課題に取り組む

筆者が、自分自身の課題の取捨選択をする際に尺度としているものの1つに、「公益性の高さ」があります。

個人主義と全体主義の話は、これまでの記事でも何度か触れてきましたが、公益性の高い課題、つまり全体主義的な課題に取り組むことで、その課題解決が自分以外の誰かのためになることになります。

木を見て森を見ず

「公益性が高い」ということは、回り回って自分に返ってくる可能性もある、ということです。

人間は欲の深い生き物であることとに加え、因果応報的な感覚を身に付けていないと、全ての判断基準が「自分自身が得をするかどうか」に絞られます。
したがって、その時その時は利益を得ているように見えても、結果として大きな損を被る場合があります。

特に現代社会は流れがとても速く、あっという間に常識が変わってしまう世界です。
そうした中で、自らの課題と向き合い、自己研鑽と成長を続け、公益性の高い成果を出す人になるのが、筆者の目指すゴールの1つです。

もちろん、全員にそうなれ、ということは出来ませんし、そのように言う気もありません。
今までの記事でも何度も言っていますが、重要なのは、自分で決めることと、決めたことには責任を持って取り組むことです。

課題をうやむやにせず、時間をかけても良いのでしっかりと向き合い、都度解決していくことが、将来的に自分に返ってくる成果としては最も効率的なのかもしれません。

山あり谷あり

今回の写真、ちょっとこだわって選んでみたのですが、一見すると、上り階段なのか下り階段なのかわからなくないですか?

きっと人生も似たようなもので、目の前に広がっているのが山なのか谷なのか、パッと見、わからないんですよね。

今日もことわざについて、自分なりに深ぼっていきたいと思います。

いろいろな使われ方をするこの言葉

良い時には「気を引き締めて」、悪い時には「長くは続かない」、という意味で使われるこの言葉ですが、抽象的な言葉なだけあって、人によっても受け取り方の振れ幅が大きいように感じます。

山も谷もいらない人にとっては良い迷惑ですよね。

穏やかに過ごしたいのに、山や谷が勝手に来るわけですから。

どんな人にでも山や谷はあるもので、どれだけそれを均そうとしても、山や谷の方から近寄ってくるものです。

ある意味それは多くの人間にとって逃れられない運命のように思います。

受け止め方で、結果は変わる

山登りをする時に大事なことは、そもそも登る気があるかどうかだと思います。

登る気の無い者に山は登れません。

一般的に、山は上に行けば行く程、酸素が薄くなったり、気温が下がったり、天候が激しく変わったり、大変なことが多いです。

それでもどうして山に登ろうとするのか。

ある登山家は、「そこに山があるからだ。」と言ったわけですが、これが真理なのかもしれません。

辛いし苦しいし、 何一つ良いことなんて無いように思えますが、山があれば登る人もいるんだ、ということは、理解しておかなければなりません。

それぞれの「山あり谷あり」

好きなものやことはそれぞれ違えど、「好きなものやことがある」という事象については、おそらくほぼ全ての人間に当てはまることでしょう。

そしてどんなことも、進もうと思えば山が立ちはだかります。

時には谷底に突き落とされます。

それでも好きなことを追い続ける気力がある者のみが、その道を究めることができるのではないかと思います。

進めば進むほど、その道が険しく思えるでしょう。

「なんでこんな道を選んで歩いてきてしまったんだ」と後悔することもあるかもしれません。

もちろん、進んだ道の先に必ず栄光が待っているわけでもありません。

山で命を落とした登山家も沢山いると思います。

ですが、彼らは不幸な人生だったでしょうか。

「幸せ」という、どうとでもとれる概念を持ち出すのはあまり適切ではないかもしれませんが、私が思うに、少なくとも登山家自身は、最後まで不幸を感じることは無かったんじゃないかな、と思います。

どうせ登るのなら、好きな山に登り、谷底に落とされよう

どんな人生を選んだとしても、必ずといっていいほど山あり谷ありの人生になると思います。

そうであれば、登る山くらい、自分で選んでも良いと思いませんか。

誰かに「この山に登るのが良いよ」と言われて登る山に、楽しさを感じられるでしょうか。

感じられる人なら構わないのですが、少なくとも自分にはできない、ということが、ここ数年でわかったことです。

いや、ずっと前からわかっていた気がするのですが、その検証をしていた、という感覚に近いかもしれません。

自ら登る山を決めることの重要性

人から進められた山に登れば、その山が険しくても、人のせいにできますね。

もっとも、人のせいにしたところで、結果が変わるわけではないのですが、残念ながら、あまりにも多くの人がこの選択をしているように見えます。

会社や人間関係の愚痴を言っている人は、「自分で選んだ山」だという自覚が非常に欠落しています。

嫌なら下山すれば良いし、その選択は自分自身にあるはずなのに、どんな選択にも責任を持たず、得は自分の手柄、損は人のせいにする人は一定数いるものです。

もし、そういう人が近くにいるのなら距離を置くべきですが、なかなかすぐにできない人は、自分自身もそうなっていないかを測るための反面教師にするのが良いと思います。

ネガティブは簡単に伝染する

愚痴を聞くと、気分が沈みませんか。

そしてその気分は、周りに伝播していきます。

人は、ポジティブな感情よりもネガティブな感情の方が移りやすいそうです。

それに、愚痴を言っている本人というのは、自分の愚痴が周りを嫌な気持ちにさせていることに気づいていない場合が多いです。

だから予防策として、なるべく愚痴を吐く人と仲良くなり過ぎない方が良いと思います。

「そこに〇〇があるから」と自信を持って言える人になるために

好きなものやことを追い続けるのは、とても難しいことのように思います。

時には、一時的に嫌な感情が生まれてしまったりすることもあるかもしれません。

それでもその山に登り続けたり、谷底に落とされても這い上がるには、自分自身がその山を好きでなければなりません。

でなければ、本当の意味で自分自身の経験にはならないと思っているからです。

確証なんて無くて当然、むしろ何が起こるか分からないからこそ、その山に登るのが好きな状態が維持できるのではないでしょうか。

そういう心構えでいることで、どんな結果になってとしても、「ケセラセラ」と思うことができるのではないかと思います。

負けるが勝ち

ことわざは、語り継がれるだけあって、言い得て妙なものが非常に多いように思います。

昨日の記事で、相当落ち込んでいる自分をさらけ出してしまいましたが、やはり谷底は長続きするものではなく、今日、考えに考えて捻り出したデータベース設計改訂案をメンバーに相談し、承諾を得て、九死に一生を得ました。

根本的な解決ができたわけではありませんが、できないなりに代替案を提示して、それが認められたことは、今振り返れば、良い成長材料になったと思います。

この記事も、例によって前日の帰りの電車の中で書いているので、もしかしたら明日、またどん底の気分を味わっているかもしれませんが、平坦な道が続くよりは遥かにましです。

最初に負け、最後に勝つのが人生

私自身はこの「負けるが勝ち」ということわざがとても好きで、そのおかげもあり、負けることに対して耐性が付くようになりました。

自己紹介記事でも、このブログでは好奇心を大事にしていきたいと書きましたが、好奇心にはチャレンジが付きもので、そしてチャレンジには失敗が付きものです。

今まで好奇心を重要視してきたことで、数多くの失敗を経験してきました。

今では、何物にも換えがたい貴重な財産になっています。

どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても、そしてその中で結果の出ないものがほとんどであっても、それぞれの経験は全て繋がっている、と自信を持って言うことが出来ます。

最初から何でもできる人なんていません(いたとしても一握りの天才です)し、失敗したところで、辛かったり傷ついたりするのは自分自身です。

その代償を払った者だけが手に入れることのできる経験値は、どんなに優れた本を読んでも、どんなに素晴らしい話を聞いても、決して手に入らないものです。

本や話は、全て過去の情報に過ぎない

本や話は、今後の人生で無駄な失敗をしないために大事なものだと思っています。

だから私はできるだけ本を読みたいし、人の話も聞きたいと思っています。

ですが、それを自分の経験として取り込んでしまった瞬間、自分は自分でなくなります。

結局は、経験をしないとその世界はわからないと思います。

それに、時間は常に未来に向かって進んでいて、過去に同じような経験をしたことがある人でも、今とは環境や条件が全く違う場合があることにも留意しなければなりません。

なので、本や話による情報も、取捨選択がカギとなります。

もちろん、このブログで書いている内容だって、一個人の主観に過ぎません。

得た情報を全て鵜呑みにするのは、本来の自分とは違う価値観を無理に取り込んでストレスになる場合があるので、考えものです。

負ける勇気がある者にしか、勝ちは訪れない

野球は、打席に立たない者に三振は出来ません。

人生も同じで、挑戦しない人に失敗はありません。

失敗しない人生を是とするならば、それも良いかもしれませんが、せっかくの人生、打席に立ち、豪快に三振する方が良い、と思ってしまうのが私の価値観です。

今の日本であれば、安定的に生きていくための難易度はさほど高くないでしょう。

だけどそうやって生きていくのは、個人的に“逃げ”と同等の行為のように感じるのです。

もちろん、そういう選択をする人々のことをここで蔑むつもりは毛頭ありませんが、自分が生きていく上でそういう選択をしたくないだけです。

きっと同じように考える方も多いでしょう、だって、このブログをわざわざ見に来てくれているわけですから。

打席に立つ回数が多ければ、ヒットを打てる可能性だって上がります。

何回も打席に立つことで、段々打席に立つことに慣れてくると思います。

そうなると強いです。

臆せず経験値を高められるようになるので、短期的には失敗続きだったとしても、長期的に見れば大きな成長の糧を得ていることに等しいです。

それぞれの自分の人生、どういうものにしていきたいか思い描いて、その為に、最初は怖いかもしれないし、豪速球に太刀打ち出来ないかもしれないけれど、勇気を振り絞って打席に立つことをおすすめします。